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植山古墳

植山古墳−丸山古墳

植山古墳 現地説明会

写真後方は丸山古墳
左の樹木のある部分が後円部
その右が前方部         

 2000年8月17日 橿原市教委は、今年5月から発掘調査をしていた五条野町字植山の「植山古墳」から巨大横穴式石室2基が出土したと発表しました。
 6世紀末と7世紀前半とみられることや位置関係から、西石室はわが国初の女帝・推古天皇、東石室はその長男の竹田皇子で、両者の合葬陵の可能性が高いとし ている。天皇陵とみられる古墳が全面発掘されたのは初めてとなる。
 8月26・27日に現地説明会が行われ、早朝より多くの考古学ファンらが押し寄せました。
 メッチャ橿原も26日取材に出かけました(暑かった!)。 市教委の「現地説明会資料」を基に概略をご紹介いたします。
 現地は、国道169号からやや東へ入った閑静な集落のすぐ近くで、甘樫丘(あまかしのおか)から西へ広がる丘陵の南西端に 位置しています。 墳丘に上がると西方向約450mには、県下最大規模の前方後円墳である「史跡 丸山古墳」(後円部は陵墓参考地)がすぐ近くに見えます。

 橿原市教委は発表当初、第2次調査は来年度の予定であるとしていましたが、2000年10月から来年2月末にかけて時期を早めて行うと発表した。
 これは、植山古墳が陵墓参考地の指定を受けていないことにより、発掘が可能であるため歴史的にも貴重な古墳としてさらに、墳丘のたち割・石棺の土の掘り下げ・ 石室入り口掘り下げ等の調査が実施される。

 

《以下は橿原市教委による現地説明会資料より抜粋》

 墳 丘  南東〜北西方向の丘陵の南斜面を 「 」 字形にカットした後、平坦部にすべて盛り土(互層積み)によって築かれた、長辺・東西長約40m(墳丘裾での計測。なお、東・西壕を含め ると約55m)、短辺・南北長約27m(残存部分での計測)、墳丘高3〜6mを測り、墳丘軸がほぼ正方位を向く長方形墳となっています。東・西・北には上 幅約10m、底幅約1.6m〜3mの壕を巡らしています。また、北と西の壕底には結晶片岩(けっしょうへんがん)(吉野川流域) と花崗岩(かこうがん)(飛鳥川上流域)で施された排水機能を持つ幅約1m、厚さ約0.6m以上の石敷きがあります。

 主体部  墳丘の南面に開口する2基の横穴式石室(東石室・西石室)が並んで設けられています。

 

東石室

●東石室
 ほぼ南に開口する両袖式で、石室の主軸(長軸)線は墳丘の南北軸に平行しています。石室の石材は植山古墳の南西に位置する貝吹山(かいぶ きやま)周辺の花崗岩を使用しています。石室の規模は全長約13m、玄室(げんしつ)長約6.5m、玄室幅約3〜 3.2m、玄室残存高約3.1m、、羨道(せんどう)長約6.5m、羨道幅1.9m、羨道残存高約2.2mを測ります。 石棺の周りと羨道中央部には、結晶片岩と花崗岩を用いた排水溝が施されています。玄室には、熊本県宇土半島で産出する阿蘇溶結凝灰岩( あそようけつぎょうかいがん)(所謂、阿蘇ピンク石)で造られたくり抜き式の家形石棺(身・蓋)が完存していました。棺蓋には各側面2個、 各小口1個の合計6個の縄掛け突起(なわがけとっき)が削り出されています。

 

石棺寸法
  全長約2.52m、
    幅(南小口約1.58m、北小口約1.53m)、高さ約0.62m
 全長約2.43m、
    幅(南小口約1.50m、北小口約1.40m)、高さ約1.10m

 

西石室

●西石室
 南南東に開口する両袖式で、主軸線は墳丘南北軸に対して西へ約16度偏っています。石室の石材は飛鳥川上流域(細川谷周辺)の花崗岩を使用しています。 石室の規模は、全長約13m玄室長約5.2m、玄室幅約2.5〜2.6m、玄室高約4.5m、羨道長約7.8m、羨道幅約2〜2.3m、羨道残存高約2m を測ります。玄室・羨道床には結晶片岩が敷かれていたようであり、羨道中央部に結晶片岩と花崗岩を用いた排水溝が施されています。また、玄門床面には、 兵庫県揖保川流域で産出する凝灰岩(所謂、竜山石(たつやまいし))で造られた玄室と羨道を間仕切る施設の下部である、全長約 2.5m、幅約1.3mの小判形をした閾石(しきみいし)が置かれています。閾石の中央部の左右には幅約20p、深さ約6p、 長さ約90p(玄室に向かって左)と約60p(玄室に向かって右)の壁石をはめ込む溝があります。また、中央やや左には片扉の軸を受ける直径約21p、 深さ約5pの軸受け穴が彫り込まれています。残念ながら石棺は残っていませんでしたが玄室内より阿蘇溶結凝灰岩の破片が数点出土していることから、 東石室と同じく阿蘇ピンク石の石棺が収められていたようです。

 

●まとめ
 植山古墳の年代は出土遺物や石室形態から、東石室が6世紀末頃、西石室が7世紀前半頃と考えられます。しかし、現時点では、古墳築造当初から長方形墳で あったか、あるいは西石室の築造に併せて墳丘が拡張されたものかは判明していません。
  植山古墳は、長方形墳であるとともに1墳丘に2石室を有す「双室墳(そうしつふん)」・「双室墳(そうしつぼ )」と呼ばれる推古朝前後(6世紀末〜7世紀前半)に限られて造られた類例の少ない特異な古墳と言えます。石室規模も奈良県下の横穴式石室に おいては上位にランク付けられる大きさであり、特に東石室は奈良県広陵町にあります牧野古墳の玄室との類以が指摘されます。そして、阿蘇ピンク石で造られ た石棺が運ばれていることや西石室の玄門閉塞に扉が採用されていること。これら植山古墳の各部を構成する要素や規模から、この古墳の被葬者は当時(飛鳥 時代)の日本で一、二の権力を有していた人物と想定してよいでしょう。
 また、今回の調査によって日本の古代史を解明する多くの「カギ」が、被葬者に欽明(きんめい)天皇(堅塩姫合葬 (きたしひめがっそう))や宣化(せんか)天皇あるいは蘇我稲目(そがのいなめ) などを候補とする丸山古墳と植山古墳が位置するこの地域に内包していることが明らかになったと言えるでしょう。

 

以下の写真4点は、いずれも橿原市教育委員会蔵
無断転載複製を禁止します。

 

植山古墳全景 西石室 しきみ石

全 景

西石室 しきみ石

 

 

西 石 室 東 石 室

西石室

東石室


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